第3章&第4章 神に背く者の姿

 

 第3章と第4章では、神に背く者の姿が描かれていますが、そのような者にも、神的なものを感じる感覚(種のようなもの)が植え付けられていると述べています。

 

   第3章

神は、神に目を向けさせるために、すべての人間に神的なものを感じる感覚を備えておられる。

 

そのことは以下のことに証左されています。

①木や石で作られた像を神々(神仏)として拝むのも、神的なものを感じる感覚があるからです。

②(天変地異のように)神の怒りの印ではないかと思えるようなことが起こると日ごろ不信心な人でさえも震え上がったりする。

③神や宗教をあざ笑ったり、無視したりしようとしても、神が人間に植え付けられた神的なものを感じようとする感覚は心の中に表れてくる。

 

人間は神を知るために生まれ、神を知るために生きています。そして「神がおられ、自分は神に造られたことを悟り、神を礼拝し、神の意志に沿った生き方をする」という目的に到達するまでは、人間の人生は空しく、平安はないのです。

 

人間と獣(けだもの)の違い、人間が獣に対して優位を保つことのできる唯一のものは、神を礼拝することである。 

 

 

  第4章

神が(聖書を通して)啓示しておられるように神を理解しようとしないなら、神(宗教)は人間の妄想の産物に成り下がってしまう。

それは人間にとって都合良く考えられた神(宗教)であり、人間にとって都合の悪い部分(摂理や審判)は排除されてしまい、人間の邪悪な行為を見逃し、裁かない神(宗教)にしてしまっている。そして、神が命じられ、教えられた御旨を侮り、公然と排斥している。

  

また神に近づく者も、裁きを恐れて、恐怖に怯えて、神のもとにやってくる.しかも神に近づく者の中には、自分にとって都合の悪い神の裁きなどは否定しようとする。しかし否定しきれないということが分かると、今度は、外見を取り繕って、敬虔な者であるかのように見せかけつつ、実生活は律法を犯し、破廉恥きわまりない生活を平気で行っている。

また、その人は神を信頼しないで、自分自身や被造物を信頼している。

 

しかし、それでも神が植え付けられた神的なものを感じ取る種は残っている。 

極悪非道な者であっても、順風の時には神をあざけっているが、絶望に駆られると切れ切れの言葉で祈り、神の助けを求めようとする。