第1章 神を知る知識と人間を知る知識

 

 カルヴァンは、まず初めに、神を知る知識(神論)と人間を知る知識(人間論)とは密接に結びついていることを述べています。

 (神を知ることによって、人間(自分自身)を知ることができる)

 

 人間は神のみ顔に目を向ける(聖なる神と出会う)ことによって、自分の本当の姿(罪深さ・醜さ・汚れなど)を知ります。それは人間にとって衝撃的な体験です。

 

 人間は本来、傲慢なものです。(神の聖さに目を向けて)自分がいかに不義な者であり、愚かな者であるかを突き付けられない限り、自分が義であり、聖く、完全であると思い込んでいる。そして自分のわずかな義や知恵で満足してしまっている。

 

 しかし神に目を向け、神の義(正しさ)と知恵と力が、いかに大きく完全なものであるかを知るなら。自分が義であると思い込んでいたことを忌まわしく(恥ずかしく)思えてきます。

 

 聖書に出てくるいにしえの聖徒たちは、神の臨在を体験したときは、いつも衝撃を受け、砕かれた。

イザヤは神の聖さに会い「災いだ」と叫んでいます。(イザヤ6章)

 また自分の義(行い)を誇っていたヨブでさえも、神の偉大さに気づかされ悔い改めました(ヨブ記 38章以降)。

 

 人間は、自分の弱さ・無知・空しさ・乏しさ・堕落・退廃などの感に襲われるとき、主のほかにはどこにも知恵も力も善も義も存在しないことを知ります。

 自分の悲惨さと神の豊かさに思いを馳せるとき、人は(それらのものを求めて)神を渇望するようになるのです。